帝国海軍「大和」
今日、ご紹介する艦艇は帝国海軍のあの大和です。!!!
というのは「ウソ」です。
今日の本命の艦艇は初代「大和」です
初代「大和」とは、明治20年に竣工されました。
ちょうど帝国海軍の黎明期にあたる時期です。
まず、艦のデータを紹介します。
常時排水量1480トン 水線長61.4メートル 最大幅10.7メートル
平均吃水4.6メートル 主缶 石炭専燃缶1缶 主機械 横置運動式2気筒連成
レシプロ蒸気機関1基 軸数 1基 機関出力 1600馬力 最大速力10.7ノット
燃料搭載量 石炭150トン 兵装 17センチ単装砲2基 12センチ単装砲6基
7.5センチ単装砲1基 25ミリ単装機関砲4基 乗員230人
「日本海軍 艦艇発達史」より
明治20年、葛城型三番艦として竣工
艦種は「巡洋艦」で日清戦争では威海衛砲撃などにも参加。
日露戦争時も主力として第三艦隊に配属。ちなみに初代艦長は「東郷平八郎」
1992年には、測量艦なり、1935年には浦賀港に係留され、少年刑務所の施設として利用される。
1945年9月15日、玉音放送から約1ヶ月、台風の被害により、浸水。沈没
機関は1600馬力とのことで、戦艦大和は27.46ノットで、本艦は遅いですがこの時代の小型軍艦としては10.3ノットは速い方です。
※まだ調査中です。
情報、資料
駆逐艦「橘」
駆逐艦「橘」、それは函館空襲の記録から、今もなお空襲の記録から黒く塗りつぶされている艦船である。
駆逐艦「橘」は太平洋戦争末期の1945年に生まれた松型駆逐艦であり、対空戦闘を主眼に設計、運用された艦船で艦長は林利房少佐。
そして、詳しいく調査しないとわからないが、同じ松型駆逐艦「柳」とともに、大艦巨砲主義の象徴の「戦艦大和」に随伴し、菊水作戦に投入される予定だったという。
↑
これは私の推測ですが、菊水作戦に投入される理由は、戦艦大和の護衛、防空、おとりとしての役目ではないかと思います。
しかし、5月7日、大本営から「駆逐艦「橘」は「柳」ともに、大湊警備府に向かい、北海道と本州を結ぶ海上交通路、輸送船を護衛せよ」との命令が下り、大湊警備府に編入された。
途中、八戸沖、付近で判明してないが米海軍の潜水艦と邂逅し、対空戦闘の装備を主とする「橘」は爆雷を投下、しかし、撃破はできず逆に雷撃を受け艦は損傷。幸い沈没する損傷ではなかった。
そして、運命の7月14日がやってきた。あの函館空襲である。
14日未明4時40分大湊警備府から北東方面本部に「敵機動部隊0450より5時50分F6F三群6機40機150機八戸三沢大湊北海道各地区に分かれ、銃爆撃中」という通信が入る。
5時00分 本州方面から米軍の戦闘機「グラマン」爆撃機「セルコア」「ウォード」の群れが来襲。函館に爆弾の雨と銃撃の雨が降る。
6時00分 函館港から「橘」が出港。米軍機との戦いが始まる
米軍機の攻撃により対空砲は故障、機銃による対空戦闘をこころみるが、目立った戦果あげられず、誘爆回避のため、爆雷などを水中放棄、米軍機の爆撃、銃撃により、機銃手はバタバタと倒れていき、甲板は人間の血で滑りやすくなっており、まさに「血の海」と元乗組員は証言している。
6時00分~40 「橘」は、函館湾を出たり入ったり、8の字型の航路とりを繰り返し米軍機と交戦していたと見られる
6時40分 米軍機の爆撃が致命弾となり北斗市葛登支灯台、東約3.40km付近にて「橘」沈没 乗組員の280名中140戦死 戦傷者31名 戦果:敵機6機撃墜、1機撃破の勇敢で孤軍奮闘艦の最期であった。
同時間、福島町で米軍機と交戦していた「柳」は「橘」から、「ワレゴウチンス」との電文を受け取る。
そして、戦後に引き上げられた際には、通信室から遺骨が見つかったという。
戦後、林艦長は海上自衛隊に入隊し、護衛艦「うらなみ」の艦長を勤め、隊内、乗組員、防大生から「海上自衛隊随一の操艦技術」と評判だったという。
※推測ですが函館湾で8の字型の航路をとれたのは、林艦長の技術の賜物とはいえるかもれしない
http://romanship.web.fc2.com/my.html
リンクさせていただきました。
はじめまして、
こんにちは、このブログにお越しくださったことに感謝します。
このブログの目的は「世界のマイナーな艦船」をみなさんに知ってもらいたい、歴史の闇に埋もれないようにと思い、ブログを開設しました。
そして、まだ調査中とのこともあり、日本海軍のマイナー艦船、艦艇が中心、に、また記事の内容が薄い、更新が少ないでずが、お読みいただれけば幸いです。
2016 19:24